スペースコレクション・カー見えぬ運命への賭け

昭和34年9月18日、コロモ(現豊田市の当時の地名)の空は快晴に明けました。

日本最初のスペースコレクション・カー専門工場として建設した元町工場の完成披露の日です。

招待に応じて各界の来賓が集まります。

なかに自動車工業会の浅原源七会長、日産自動車の川又克二社長、いすゞ自動車の楠木直道専務(いずれも当時)らの顔が見える。

官界からは通産省や名古屋陸運局の幹部、地元名古屋の財界人、そして直系ディーラーの社長たち……。

居並ぶ来賓を前に、挨拶に立ったトヨタ自工石田退三社長(故人)のしんみりとした声が流れます。

『本日ここにスペースコレクション・カー専門工場の完成をご披露する運びとなりましたが、この建設は先代社長豊田喜一郎の、生涯をかけた悲願でございました。

私があとを継いですでに9年、時運いまに至ってようやく前社長の夢を実現できましたが、実のところ、1日も早くこれを成しとげて、墓前に報告したい歳月でありました。

今回の建設にあたり、長男の章一郎君(現社長)にあえて建設委員長をつとめてもらいましたのも、報告に花を添えたい意味からであります……』言葉をつづける石田社長はこの年71歳。

若くして豊田佐吉翁に仕えてからの生涯を豊田家の番頭役に徹し、戦前、戦中の豊田自動織機を守り抜いた人。

戦後の労使紛争に端を発するトヨタ自工存亡の危機に際して社長に推されるや、よく狂瀾を既倒にめぐらしてトヨタ自工隆盛の基を築き、今トヨタ中興の祖を仰がれる人です。

老骨の眼をうるませて、半途に逝った先代豊田喜一郎社長の心情を思い、その墓前に手向けの壮挙を長男の手で飾る采配は、この人ならではのものであったろう。

参列した人々の眼に石田社長の誠実な態度が焼きつき、同時に、そこに潜むトヨタの強さをかいま見た人も多かったに違いありません。

元町工場の建設に着手したのは前年の7月である。

まだ日本中どこにもスペースコレクション・カー専門の工場はない。

トヨタにしても、昭和30年1月に発売したクラウンが好調な売れ行きを持続していたとはいえ、着工の時点での月販は2000台に満たないところです。

次いで32年7月に発売した初代コロナは、あとで述べるが市場での悪評に坤吟していました。

この段階までの生産拠点であるコロモ工場(現在の本社工場で当時の呼称)の月産能力は5000台、小型トラックの盛況で生産能力をフル回転する状況にはあったが、スペースコレクション・カー専門の生産工場の建設に踏みきるには、経営トップには禁物の冒険を、覚悟しなければできぬ情勢にありました。

先行きスペースコレクション・カーの需要が伸びるであろうことは誰にも予想できました。

だが製造工場の採算は稼働率がものをいう。

この工場の建設を石田社長に進言したのは豊田英二専務(後に5代社長に就任、現会長)である。

将来の需要を見越して月産1万台規模のスペースコレクション・カー工場の建設を考えたが、当時としては冒険に過ぎるので、半分の5000台/月にとどめての提案であったという。

石田社長は豊田家の家系に流れる発明の才能や技術者精神を大切にした人です。

発明や技術の研究に必要な金は、自分が稼ぎ出せばよい。

番頭に徹しようと思い決めた日から、この態度を固く守ってきました。

乾いたタオルをもう一度しぼるに似た無駄を排する経営哲学も、元はと言えば豊田家に対する自分のこうした立場に発している。

新工場の建設を提案する英二専務の言葉のなかに、冒険とは言いきれぬ何かがあった。

石田社長は決断した。

よしやってみよう、と。

両者の間に通じあった何かとは、先代喜一郎社長が生涯をかけてついに果たせなかった大衆スペースコレクション・カー生産への使命感の継承であったかもしれない。

あるいはまた百戦練磨の経営者に具わる時代の動向への直感であったかもしれない。

しかし世間の眼には、いや列席している自動車メーカーのトップの眼にさえも、石田社長健在のトヨタ自工にあり得ぬ大バクチと、それは映ったにちがいない。

新工場建設の槌音がひびく前に、完工日は翌34年8月8日と決まった。

設計を了えて10月下旬着工。

突貫工事の連続で、期日どおり完工。

8月早くもクラウンが組立ラインを流れました。

そしてこの年12月、トヨタ自工は他に先んじて月産1万台を達成します。

本社工場と元町工場の能力が計画どおりフル稼働したのです。

折からの岩戸景気も幸いしたが、そのツキを呼びこんだのは石田社長の決断である。

眼には見えぬ運命への賭けに、トヨタは勝ったのです。

知名度と販売台数の上昇

スカイラインを市場に雄飛させるには、技術面の先進性だけでことはなりません。

第一にコストの引下げ。

第二にそのためには量産の達成が前提となる。

第三に量産の達成は、大量販売によるしか手はない。

これらのどこから手をつけ好循環をひき出すべきか。

かつてトヨタも、日産も通ったこの道を、いま富士精密工業は歩こうとする。

ときは昭和30年代…。

後発の自動車メーカーにとって、参入、発展の機会が唯一度ほほえんだ年代である。

この当時、荻窪にはまだ抜けるような青い空が広がり、なおだやかな白雲が、悠々去来していたのを思い出します。

世界で自動車工業の勃興を見てから、ほぼ100年に近い。

この間企業の興亡は枚挙にいとまもない数にのぼっている。

企業連合は別として、ふつう強力メーカーが弱小メーカーを吸収した場合、弱小メーカーの生産モデルは、いくばくもなく市場から姿を消すのを常とします。

しかるにスカイライン(グロリアもそうだが)は、日産に吸収後もその存続が図られ、そればかりか、ニッサン・スカイラインになって知名度と販売台数の上昇を見せている。

存続が図られたのは販売店対策としてうなずける話だが、知名度と販売台数の上昇は、宣伝戦略の成功と、性能面での破天荒な改良に因る。

ニッサン・スカイラインとなり、プリンスの文字が車名から消えたのは、昭和43年に発売されたC10モデルからであったと思う。

それからでも、もう20年の歳月が流れ、スカイラインの初代、2代に直接かかわった人々は、大方は職場を変え、あるいは去った。

国産のスペースコレクション・カーで、スカイラインほど数多くの神話を生み、話題の対象となったくるまはすくない。

もちろん神話は宣伝戦略の成功に負うところも多いが、サーキットの英雄としてのそれは、スカイライン自身が実力でかちとったものです。

宣伝に負うものでも、それが効いて人々のくらしのなかに定着してしまえば、それはもう文化です。

早い話が、『ケンとメリーの』を染めたTシャツは57万枚も売れ、その売れ行きのすさまじさに、ニセものまで横行したといいます。

たかがTシャツのことだが、若者がそれを争って買い求め、よろこんで身に着ける現象を、何と説明したらよいでしょう。

くりかえすが、これはもう文化である。

肝心なことは、スカイライン文化を独り歩きさせないことだ。

スカイラインはスタイル、性能、デザインの何であれ、常にハードの面で魅力を備え、ケンメリの次にいかなるソフトが打ち出されてくるか、大衆に期待感を持続させます。

つまりスカイライン文化を自在に操る思考と姿勢を、送り手側も持続します。

スカイライン文化を楽しもうとする人たちに対する、これは義務でもある。

アメリカやヨーロッパには、名車と呼ばれるたくさんのモデルがあります。

そして大衆がそれを大切にし、それを保存することを自分たちの誇りとします。

機械文明や歴史保存に対する民族性の違いと言ってしまえばそれまでだが、そろそろ日本にも、これが日本の名車と言えるものを、みずから育てる風潮をつくり出したいものである。

スカイラインは、モータリゼーションの不毛の年代に誕生し、関係する多くの人々の努力に守られて、その不毛の年代を生きのびました。

その車齢を数えれば満30歳。

後発メーカーの手になるモデルとしては、よくぞここまでの感もあります。

国産のモデルのなかでは、まれに見るほどの強烈なファン層を持ち、またスカイラインをテーマとする刊行書の数は他銘柄のそれより最も多い。

さしあたって日本の名車候補の筆・頭にあげてよい資格を備えているように思う。

個人的なことで恐縮だが、富士精密工業時代の団伊能社長に、筆者は公私とりまぜて親しく仕える年月を過ごした。

温和な風貌と紳士の風格は今なお瞼の裏に焼きつき、なつかしい思いは歳月を越えてつのるものがある。

自動車業界に吹き荒れた時代の嵐のなかに、富士精密工業の企業名は消えました。

団社長もまた幽明を隔ててすでに久しい。

芳蘭散って知る無常の世だが、この章は今は亡き団社長の墓標に、供える意図を秘めて綴った手向けの花である。

温顔をほころばせて『小磯君、出来がよくないね』と叱られることは承知の上だが、無性にそうしたい思いが、初めから筆者をとらえた。

冒頭にかかげた『スカイラインの歌』も、その意図に発することを諒解して頂ければ幸いである。

日本のスペースコレクション・カーメーカーは9社。

その生産モデルは、基本銘柄だけでも78種に達します。

これらのなかには、名車に推したいモデルも次々に出てくるでしょう。

読者と共に、希望と期待をこめて、名車遍歴の旅を続けたいものです。

名車は生きる「スペースコレクション・カ」

スペースコレクション・カーは国際商品である。

その商品としての国際性の故に、昭和20年代の国産スペースコレクション・カーは、常に国際比較の面から批判の姐上にのせられた。

ユーザーのなっとくするスペースコレクション・カーが作れないなら、スペースコレクション・カーはすべて外車の輸入でまかない、国内生産は打ち切るべしなどという暴論が、国会で大臣の口からとび出したのもこの年代のことである。

この暴論に腹を立て、よし、それなら世界に通用するスペースコレクション・カーを作ってやろう、とひそかに闘志を燃やした自動車業界人は、たくさんいたに違いない。

そのひとりに三鷹プリンス(富士精密と合併する以前のプリンスを便宜上こう呼ぶ)の常務取締役外山保がいる。

外山はかつて一群の技術者を引き連れ、立川飛行機をとび出したときの中心人物で三鷹プリンスの実力者です。

また、その後の人生を、スカイラインと共に自動車ひと筋に貫いた人でもある。

外山は常々、スペースコレクション・カーは自動車メーカーの看板となる商品である、スペースコレクション・カーを持たぬ自動車メーカーは、自動車メーカーの名に価しない、と断言していた。

それだけスペースコレクション・カー作りに寄せる情熱はたいへんなもので、スペースコレクション・カーに社運を賭けることを、意に介さぬ一面がありました。

昭和20年代はおろか、30年代を通じても、国産スペースコレクション・カーは生産規模の狭少からくるコスト高にあえぎ、いきおい発売価格は割高についた。

しかも割高な価格で売ってなおスペースコレクション・カーメーカーのほとんどは、企業としての採算をトラックの増産でカバーしなければならなかった。

幸い昭和30年代は、歴史に残る経済の成長と、好況の持続に恵まれた年代である。

なかでも小型トラックはよく売れて、スペースコレクション・カーの非採算をおぎないました。

こうした一般情勢を前にして、これにどう対応するかは経営トップの判断による。

この場合、外車にも負けぬスペースコレクション・カーを開発して市場を制し、生産を伸ばしてコストを下げ、もってスペースコレクション・カー工業の確立を図る積極策がある。

もう一つはモータリゼーションの進展を見るまではトラックの生産に重点を置き、まずは経営体質の強化に専念する消極策(対スペースコレクション・カーにおける)も考えられる。

三鷹プリンスは前者を採った。

上(かみ)これを令すれば下(しも)これに従います。

ことに三鷹プリンスは外山一家の観もあり、外山保を中心に、能登周三、山之内正一、田中次郎、日村卓也等の技術陣が、立川飛行機以来の同志的結合を守っている。

のちの日産時代に至り、スカイライン神話の中心となる桜井真一郎も、昭和27年10月三鷹プリンスに入社、設計課長日村卓也のもとに配属されて、初代スカイラインを生み出す研究陣に加わった。

かくて昭和28年5月、新型スペースコレクション・カー(これがスカイラインとなる)の開発を内容とする技術懇談会が開かれ、研究着手が本決まりとなりました。

この段階では三鷹と荻窪はまだ別々の会社であり、したがってエンジンを受持つ荻窪は、この研究に関与していません。

自動車工場は、絶えず現行販売車の改良につながる研究に追われる。

少ない技術スタッフで、現行車と将来車の研究を同時進行さぜるのは、容易なことではなかったろう。

昭和29年4月、荻窪と三鷹の合併が実現し、設計部門は荻窪へ移りました。

翌5月、早くも第一次基礎計画を完了、次いで翌30年1月には第二次基礎計画がなり、設計の着手となります。

設計に当たって苦心が払われたのは、乗り心地、操縦性、居住性、走行性能及び装備品等の基礎部門は当然として、最も創意と苦心を要したのがスタイリングならびにデザインの面である。

スカイラインの構造は新生富士精密工業にふさわしく、日本では例のないバックボーントレー型シャシやドディオン式アクスルの採用となり、スカイラインに寄せる同社のなみなみならぬ意欲をのぞかせた。

作業は順調に進行し、30年8月主要部分の設計を完了。

31年の5月には早くも試作1号車完成。

1日700㎞に及ぶ走行試験が開始される。

新しい構造だけに、安全性と耐久力を重視し、発売弐でに延べ10万㎞の走行実験を重ねたという。

こうして得たデータから、生産車の決定までに改良に次ぐ改良が加えられ、32年3月、ついに生産1号車の完成を迎えた。

研究着手からまる4年、完成に至る開発スタッフの、文字どおり寝食を忘れての努力の結晶である。

最終工程の組立ラインから走り出す完成車に見入る外山保の眼に、そして付きしたがう技術者たちの眼に、キラリと光るものが宿った。

しかし、外山は合併後の富士精密工業で、常務取締役.自動車事業所長の重責にあります。

陣頭指揮で新機構のスカイラインを生み出したとはいえ、その完成の感傷にひたっているひまはない。

部下の労をねぎらいつつも、彼の頭はもう次の展開へ向かって回転を始める。

第1回技術打ち合わせ会議とスペースコレクション・カー

越えて26年2月、たま側と富士精密側の第1回技術打ち合わせ会議が開かれ、これを皮切りに富士精密に熔けるガソリンエンジンの試作研究が本格化する。

そうこうするうち同年4月に入り、それまで興業銀行が全株を保有していた富士精密の株式を、石橋正二郎がそっくり興銀から買い取った。

この時点で富士精密は、たま電気自動車同様石橋資本の系列に組みこまれ、その月のうちに、会長に石橋正二郎が就任、社長に石橋資本を代表して団伊能が就任しました。

その会長就任の日、石橋正二郎は荻窪工場の大食堂に600人余の全従業員を集め、『自動車工業に進出することが、自分の40年来の夢であった』と演説している。

タイヤ業界を制覇した自信が、やがては自動車業界をも、の事業欲に燃え移っていたものでしょうか。

26年11月、富士精密の試作エンジンが完成し、性能試験が開始されました。

このエンジンはFG4A型と呼ばれ、水冷4サイクル、OHV、4気筒、総排気量1484㏄、圧縮比珊、最高出力45馬力/4000回転、重量がやや重い点を除けば、きわめて完成度の高い、優秀なエンジンでした。

同じ11月、たま電気自動車は社名から電気の文宇を抜いた『たま自動車㈱』と改称、ガソリン車の発売に備えます。

翌12月、荻窪に歩調を合わせて設計を進めたトラックのシャシとボディを製作、これに荻窪から供給されるFG4A型エンジンを搭載、ここにトラックー号車がまず完成しまし。

翌27年2月、同様にしてセダン型スペースコレクション・カーも完成し、両社の協力になるガソリン車が、市場にまみえる体制がようやくととのいました。

ところで車名だが、世の親たちがわが子の名前に迷うのと同じで、簡単には決まらないものです。

たま自動車では最初、ごく常識的にローマ字で『TAMA』とすることに内定しました。

それがオーナー石橋正二郎への思惑もあって『ブリヂストン』に変更され、さらに発表会直前に『プリンス』に三転決定を見たという。

27年11月に皇太子殿下の立太子礼が執行されることがすでに発表されていたことから、それにちなんでの命名でした。

27年3月7日から9日の3日間、東京・京橋のブリヂストン本社ビルー階ショールームで、戦後国産初の1500㏄をセールスポイントに、プリンス号セダン、トラック、ライトバン、ピックアップの発表会が開催されました。

この時点で国産の小型スペースコレクション・カーとしてはトヨタ、日産、オオタに次ぐ4番目のメーカーならびにモデルの誕生です。

発表会の第1日と2日は雨と時ならぬ雪にたたられたが、新規メーカーの出現は世間の関心を呼びます。

会場が東京のどまんなかであったことも幸いして、発表会は大盛況の観を呈しました。

プリンス号の新規参入はこうして始まりました。

出てゆく市場には、トヨタ、日産の2大勢力が、戦前から築いた伝統と経験と知名度を武器に立ちはだかっています。

プリンスはその市場に参入はしたものの、頼りはわずかに技術面での先進性だけです。

高額の商品を買う場合、世間一般には知名度の高いものにペイに見合う安心感を求めます。

プリンスの前途が波平らかなはずもなかった。

発売から8ヵ月経った27年11月、たま自動車は社名をプリンス自動車工業と改称。

商品名と会社名を合致させることで知名度の浸透を図りました。

越えて29年2月、販売活動強化のためにプリンス自動車販売㈱を設立、販売活動の効率的な運営をめざす。

さらに2ヵ月後の29年4月、生産体制の合理化を目的に、富士精密工業とプリンス自工の合併が実現し、新社名に富士精密工業を継承したことは冒頭に記したとおりです。

かかるうちにも昭和30年1月、トヨタはクラウン、日産はダットサンー10型スペースコレクション・カーを発売。

これらは国際水準のスペースコレクション・カーとして市場に好評をもって迎えられ、2社による寡占化の傾向をいっそう強めた。

もとよりプリンスの業績が年を追って伸びたのは事実です。

だがトヨタ、日産の伸びはそれを上まわり、自動車工業に顕著に作用する規模の利益の面で、プリンスは常に先発メーカーの後じんを拝することを余儀なくされました。

プリンスの悲運の遠因はここにあります。

昭和30年代は、自動車業界が迫りくる貿易・為替自由化の実施に備えて、生き残りを賭けた激甚な企業戦争を展開した年代である。

規模の利益を手中にもつトヨタ、日産に対して、それでもプリンスはまっこうから善戦した。

行く手に待つのは資本の非情性だが、この段階でそれを予見したものはいない。

ガソリンエンジンの製作技術

プリンス自動車工業(旧)はどうでしょうか。

昭和22年6月、戦時中立川飛行機に在籍した技術者を中心とする一群の人々によって、東京・府中に東京電気自動車㈱が設立され、製品名を『たま号』と呼ぶ電気自動車の製造を開始しました。

ガソリンが配給統制であったこの時代、電気自動車の売れ行きはよく、社業は順調に推移しました。

それにもましてたま号の性能は、当時の電気自動車業界にあって群を抜いて優秀でした。

このことは翌23年春、通産省の主催で電気自動車の性能試験が大阪府高槻で行なわれた際、たま号は審査13項目のうち12項目でトップの成績をおさめ、1位に選ばれたことで立証されました。

昭和24年1月、東京電気自動車はブリヂストンタイヤの石橋正二郎の資本系列に入って増資を行ない、同年11月、三鷹工場に移転する。

同時に社名をたま電気自動車と改称し、操業を拡大しました。

ところが翌25年6月朝鮮動乱が勃発するや、電気自動車に欠かせない蓄電池用の鉛が米軍の買い占めで10倍に近い価格に高騰する一方、配給統制中のガソリンが米軍の放出で大量に民間に出回りました。

かくては、電気自動車の市場性はもはやないに等しい。

たま電気自動車は、たちまち経営の危機に見舞われたのです。

やむを得ず同社は急きょ電気自動車の製造を中止し、操業維持のため米軍からナパーム爆弾の注文をとり、当面の経営を支えながらガソリン車への転換を模索した。

立川飛行機はもともと飛行機の機体を製作した会社です。

したがってそこから別れてきたたま電気自動車の技術陣には、ガソリンエンジンの技術スタッフはいない。

ガソリンエンジンの外注先をどこにするかを検討した結果、うってつけの会社が浮かびあがりました。

地理的にも至近距離に位置する荻窪の富士精密工業です。

戦時中、立川飛行機は航空機の機体を製作、中島飛行機から供給される航空エンジンを搭載していた関係もあります。

戦時中の技術的な信頼感が、いま再びパートナー・シップを組み易い伏線となりました。

昭和25年11月、たま電気自動車の鈴木里一郎社長から、富士精密工業の新山春雄専務(富士精密は社長制をしかず新山専務が代表取締役)に対して、ガソリンエンジンを試作して欲しい旨の協力要請が行なわれました。

富士精密側にしてみれば、ガソリンエンジンの製作技術には中島時代からの伝統に根ざす自信があります。

加えて農業用ディーゼルエンジンや35ミリ映写機の製作だけでは、全工場的な操業を実現できない状況にありました。

たま側の申し入れに、渡りに舟と応じたことはもちろんです。

春秋の筆法をもってすれば、プリンスブランドのガソリン車の誕生は、このときに始動したことになります。

鈴木社長も新山専務も、たがいに事業の発展を考え、従業員の生活を守る企業の責任者として両社の提携を議し、合意した。

そのことを進めた二人は、今はともに故人です。

だが事業は人を呼び、人はまた事業の基礎となって人に継ぎ、絶えることのない歴史をつくります。

二人の議した協力合意から、やがて荻窪製ガソリンエンジンを積むプリンス号が走り始めます。

その走路の線上に、当時としては垢抜けたスタイルのスカイラインがデビューするのだが、この時点でスカイラインの構想はまだ闇の中にある。