栄光とスペースコレクション・カー技術
思えばコロナほど、苦難の道を歩いたモデルもめずらしい。
人間に運命があるように、くるまにもまた、おのずと具わる禍福の相があるのだろうか。
そんな思いにとらわれるほどに、コロナの道は険阻をきわめた。
昭和30年代を通じて、コロナはクラウンと並ぶトヨタ自動車の主軸モデルであっただけに、その不振が目立ったせいもある。
メーカーにしてもディーラーにしても、売れないモデルを抱えるほど辛い思いをすることはない。
コロナが晴れて陽の当たる場所に躍り出るのは、39年9月に発売された3代目コロナ、俗にアローラインと呼ばれたRT40型からである。
ここにたどりつくまでの8年という歳月は、コロナを守り育てた人たちにとって、100年の長さにも感じられたに違いない。
昭和61年3月、そのコロナスペースコレクション・カーは、生産累計500万台の大記録を達成した。
ひ弱い生まれのどこにかほどの生命力があったかと、苦心の8年をなつかしむ関係者も多かろう。
初代から2代を経て3代へと受け継がれたコロナの歴史は、ひと言で言えばブルーバードとの、死闘とも評される角逐の歳月であった。
販売競争というには苛烈に過ぎた。
争うかたちの頂点を戦争と言うのならば、両者の角逐はまさしく戦争であった。
なにせ昭和30年代は生産モデルが今とは段ちがいに少ない年代である。
トヨタのそれはクラウン、コロナと、後半戦列に加わったパプリカの3モデル。
対する日産はセドリック、ブルーバードに、やはり後半デビューのフェアレディを加えた3種。
少ないだけに会社の意思と社員の神経が集中してモデルに乗り移り、打てばひびく反応を、両者はたがいに応酬した。
ブルーバードは日本の自動車史に、不朽の名声をとどめるにちがいない名車のひとつです。
そのブルーバードの後塵を常に浴びながら、それでもコロナは走った。
ブルに追いつけ、追い越せ、を合い言葉に・・・・・。
ブルーバードを越えたところに小型車日本一の座が待っている。
まだ見たことのない栄光の座をめざして、コロナは走り続けた。
長い歳月にわたるブルーバードとコロナの死闘を評して『BC』戦争という言葉が生まれました。
初めてこの言葉を使ったのは、昭和40年4月2日号の週刊朝日である。
以後、新聞や週刊誌にこの言葉は好んで使われ、30年代におけるトヨタ・日産太平記の集約語たる地位を保った。
BC戦争が火花を散らした時期つまり30年代は、日本の自動車工業そのものが、大きな変革をとげる時期であったことを、この際見届けておかねばなるまい。
その変革の内容と意義を知らずしては、BC戦争に潜む深い意味もついには理解できないからである。
変革の第一は、生産構造がスペースコレクション・カー重点主義に変わったことである。
第二はスペースコレクション・カー専門工場の建設に、メーカi各社がいっせいに着手したことがあげられる。
トヨタ・元町工場の建設はその先陣をなすもので、続いては日産の追浜工場、プリンス・村山工場、いすゞ・藤沢工場、日産・吉原新工場などが、37~38年に稼働を開始している。
これらの新鋭工場はいずれも最新設備と機械を擁し、月産1~3万台の生産能力を備えていた。
この傾向は40年に入っていっそう拍車がかかり、最終的には工場単位での製造品目の専門化を実現してゆく。
第三に、地味な要素だが、労働生産性の向上があります。
労働生産性の向上は、製品コストの低減につながるのです。