ガソリンエンジンの製作技術

プリンス自動車工業(旧)はどうでしょうか。

昭和22年6月、戦時中立川飛行機に在籍した技術者を中心とする一群の人々によって、東京・府中に東京電気自動車㈱が設立され、製品名を『たま号』と呼ぶ電気自動車の製造を開始しました。

ガソリンが配給統制であったこの時代、電気自動車の売れ行きはよく、社業は順調に推移しました。

それにもましてたま号の性能は、当時の電気自動車業界にあって群を抜いて優秀でした。

このことは翌23年春、通産省の主催で電気自動車の性能試験が大阪府高槻で行なわれた際、たま号は審査13項目のうち12項目でトップの成績をおさめ、1位に選ばれたことで立証されました。

昭和24年1月、東京電気自動車はブリヂストンタイヤの石橋正二郎の資本系列に入って増資を行ない、同年11月、三鷹工場に移転する。

同時に社名をたま電気自動車と改称し、操業を拡大しました。

ところが翌25年6月朝鮮動乱が勃発するや、電気自動車に欠かせない蓄電池用の鉛が米軍の買い占めで10倍に近い価格に高騰する一方、配給統制中のガソリンが米軍の放出で大量に民間に出回りました。

かくては、電気自動車の市場性はもはやないに等しい。

たま電気自動車は、たちまち経営の危機に見舞われたのです。

やむを得ず同社は急きょ電気自動車の製造を中止し、操業維持のため米軍からナパーム爆弾の注文をとり、当面の経営を支えながらガソリン車への転換を模索した。

立川飛行機はもともと飛行機の機体を製作した会社です。

したがってそこから別れてきたたま電気自動車の技術陣には、ガソリンエンジンの技術スタッフはいない。

ガソリンエンジンの外注先をどこにするかを検討した結果、うってつけの会社が浮かびあがりました。

地理的にも至近距離に位置する荻窪の富士精密工業です。

戦時中、立川飛行機は航空機の機体を製作、中島飛行機から供給される航空エンジンを搭載していた関係もあります。

戦時中の技術的な信頼感が、いま再びパートナー・シップを組み易い伏線となりました。

昭和25年11月、たま電気自動車の鈴木里一郎社長から、富士精密工業の新山春雄専務(富士精密は社長制をしかず新山専務が代表取締役)に対して、ガソリンエンジンを試作して欲しい旨の協力要請が行なわれました。

富士精密側にしてみれば、ガソリンエンジンの製作技術には中島時代からの伝統に根ざす自信があります。

加えて農業用ディーゼルエンジンや35ミリ映写機の製作だけでは、全工場的な操業を実現できない状況にありました。

たま側の申し入れに、渡りに舟と応じたことはもちろんです。

春秋の筆法をもってすれば、プリンスブランドのガソリン車の誕生は、このときに始動したことになります。

鈴木社長も新山専務も、たがいに事業の発展を考え、従業員の生活を守る企業の責任者として両社の提携を議し、合意した。

そのことを進めた二人は、今はともに故人です。

だが事業は人を呼び、人はまた事業の基礎となって人に継ぎ、絶えることのない歴史をつくります。

二人の議した協力合意から、やがて荻窪製ガソリンエンジンを積むプリンス号が走り始めます。

その走路の線上に、当時としては垢抜けたスタイルのスカイラインがデビューするのだが、この時点でスカイラインの構想はまだ闇の中にある。

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